我が日本学  明治維新1

歴史哲学

坂本龍馬と明治維新

坂本龍馬 脇差「楠本正成の短刀」と共に

―――幕末維新・明治維新を深く理解するためには、「大政奉還」の立役者、坂本龍馬を明確に記憶に残しておきたいものです。

 司馬遼太郎の『竜馬がゆく』は、多くの方々が読まれた本だと思います。私も3~40年前に夢中になって読んだ記憶があります。NHKの大河ドラマで何回か取り上げられています。「竜馬がゆく」の北大路欣也さん主演、「龍馬伝」の福山雅治さん主演、いずれも実にカッコイイ竜馬(北大路欣也・福山雅治)に惚れ込んで見入った記憶が有ります。しかし、残念ながら、坂本龍馬と「大政奉還」「江戸城、無血開城」くらいは結びつきますが、坂本龍馬はいったい何を指し遂げた人、そんなあやふやなものしかありません。(勉強不足です。)
 このブログ上において、坂本龍馬の全体像を学び直してみたいと思います。

 主に、松浦光修著「日本の心を思い出す六つ」の著書、等から学ばせて頂きます。

 先ずは、その頃のアジアでの、ヨーロッパ諸国の植民地化政策の図を記載します。

*列強諸国のアジア進出(19世紀後半) 『最新 日本史』松浦光修共著 (平成24年)

西暦でいうと19世紀後半、つまり、坂本龍馬が活躍している頃。幕末時代。                  ヨーロッパ列強諸国における、アジア進出の図です。幕末の日本が、どれだけ厳しい国際環境に置かれていたかが、お分かり頂ける事と思います。                                        アジアで、独立を保っている国は、ほとんどありません。インド・ビルマ・マレーシア・シンガポールはイギリスの植民地。                                                                インドシナ(ベトナム)・ラオス・カンボジアはフランス。東インド(インドネシア)はオランダ。                                      フィリピンはアメリカの植民地。そして、清国は、アヘン戦争によって、白人諸国から半植民地状態。    かろうじて、独立を保っているのは、タイ・朝鮮・日本くらいの状態でした。この様なことはアフリカ・オセアニア・ラテンアメリカでも、全世界、白人諸国の植民地にされておりました。        実は、日本が明治維新を成し遂げた後、世界では歴史上最も激しく白人諸国の世界侵略が激しさを増して行ったのです。

 日本では、学校の日本史の教科書や、様々のメディアが伝える日本史の情報はいろんな点で歪んだいます。その一つが、明治時代の日本を取り巻く、白人諸国の軍事的圧力が、全く見えてない様になっております。今の日本人の多くは、明治時代の国際環境について、まるで白人諸国の軍事的圧力は無かったかのような錯覚に落ち得っています。実際は、大変難しい時代だったのです。白人諸国の軍事的圧力は明治時代になって、益々強まっています。白人諸国の植民地支配の勢いは、そのピークの時点では、なんと世界の89%が支配されておりました。

 かって平家の全盛期「平家にあらずんば、人に非ず」と言われた時代も有りました。しかし、つい80年程前「白人に在らずばひとに非ず」の状況だったのです。その様な時代背景を踏まえて置かなければ明治時代から昭和戦前期に至る。我が国の先人たちが直面した苦難の本質は、ほとんど理解出来ないと思います。                                                                                                    もし、明治維新が、もう少し遅れていたら、日本は危なかったはずです。明治維新はまさに間一髪・・で成功した大革命だったのです。                                                              全世界を武力で支配していく白人諸国に対して、アジア・アフリカ・オセアニアの諸国の中で、唯一「反抗」できたのは日本だけでした。その日本の「反抗」の「かたち」こそ明治維新だったのです。                                          「近代日本の歩み」そのものです。

 明治維新によって、日本は政治的には、近代的な立憲君主制の統一国家を造りあげました。近代的な議会政治も始まりました。                                                            また、経済・文化・の面でも一新されました。近代的な科学、工業、金融、教育、軍隊、交通、流通システム等が造り上げられました。国は強く豊かになり、人口も増加し、結果的に日本の自由と独立は守られました。今日の豊かな日本も、明治維新がそのもとになっているのです。

 さて、このブログ上のテーマであります。坂本龍馬の歩みを振り返ってみましょう。
 1853年、14歳になった龍馬は小栗流の武術を学び始め、さらに武芸を極めるために江戸に修行に出立します。江戸に着いた龍馬は、北辰一刀流の千葉道場に入門しました。

しかしその年の6月、アメリカ海軍のペリーが軍艦4隻を率いて浦賀沖に来航します。それ以降、日本は大きく動き始めました。江戸時代末期にあった日本は黒船を目の当たりにし、攘夷思想が広がっていきます。若き龍馬(19才の頃)もその影響を受けたひとりです。

 龍馬は剣術修行の傍ら、佐久間象山の私塾に通ったり、土佐に戻って城下屈指の知識人とされていた河田小龍のもとで国際情勢を学んだりと、積極的に見聞を広めていきま

 1861年、日本各地で尊王攘夷運動が高まる中、土佐藩の出身で江戸留学中であった武市瑞山は土佐勤王党を結成。これに賛同した坂本龍馬も一員として加わりました。やがて長州藩の尊王攘夷運動の中心にいた久坂玄瑞に刺激を受け、1862年2月、龍馬は脱藩を決意します。

 脱藩後の龍馬は、その後の運命を決定づけるような人物と出会いました。それが、勝海舟です。開国後の日本のあり方について考えていた勝海舟にたちまち心酔した龍馬は、その場で門下生となりました。

 海軍操練所も廃止となる中、それでも龍馬は薩摩へ向かい、薩摩の地で日本初の商社「亀山社中」を設立します。亀山社中は船で運送を行いながら利益を上げ、その利益を倒幕運動に活かすという、当時としては画期的な考え方により設立された組織でした。
 龍馬は忙しい日々の合間を縫うかのように、1864年の夏頃、医師の娘であったお龍(りょう)と結婚しています。気丈なお龍のことを、龍馬は姉に「まことに面白き女」と手紙に書き送りました。

 船中八策(せんちゅうはっさく)とは、坂本龍馬が提案した新しい日本の政治体制に関する構想であり、明治維新後の政府の基盤となったとされる重要なアイデアです。
この構想は、1867年に彼が長崎から京都へ向かう船の中でまとめたと伝えられています。

名前の通り、「八つの政策」が盛り込まれており、その内容は当時としては非常に革新的でした。
その主なポイントには、議会の設置、憲法の制定、外交や軍事の整備、そして大名の特権の廃止などが含まれています。
これらは、封建制度を根本から見直し、国民が主体となる近代国家を築くための基礎でした。

特に注目されるのは、「公議政体の樹立」という考え方です。
これは、特定の身分に限らず、広く人々の意見を反映させる政治体制を目指すもので、まさに民主主義の萌芽といえます。
また、外交の一元化や、新たな法律の制定など、中央集権国家としての枠組みを整えるための提言も含まれていました。

ただし、実際に「船中八策」が文書として残されているわけではなく、その内容は龍馬の周囲の人物によって後に伝えられたものが元になっています。
そのため、一部では史実かどうかについて議論もありますが、坂本龍馬がこのような構想を持っていたこと自体は、彼の先見性を示す象徴として広く認識されています。

つまり、船中八策は単なるアイデアではなく、後の明治政府の設計図の基礎となった構想であり、龍馬の政治的なビジョンが凝縮されたものだと言えるでしょう。

1867年、武力での倒幕を狙う長州藩と薩摩藩に対して、龍馬は武力衝突を避ける大政奉還の計画を企て、土佐藩主から江戸幕府に進言してもらうよう、奔走します。

しかし、その結果を龍馬がみることはできませんでした。11月15日、潜伏していた京都四条河原町の近江屋で中岡慎太郎との会談中に襲撃を受け、不慮の死を遂げたからです。この近江屋事件により、坂本龍馬は31年という短い生涯を終えます。(龍馬暗殺、付いてはまた、別に記載します。)

慶応3年(1867年)6月、龍馬はいろは丸沈没事故を解決させたのち、京都に上洛していた前土佐藩主の山内豊信(容堂)に対して大政奉還論を進言するため、藩船の「夕顔」で長崎を出航し、上洛中の洋上で参政の後藤象二郎に対して口頭で提示したものを海援隊士の長岡謙吉が書きとめ成文化したとされた、この「船中八策」が「五箇条の御誓文」となったと言われていた。しかし、2010年代の文献調査により、明治以降に龍馬の伝記(「竜馬がゆく」司馬遼太郎)が編まれる際に創作されたという見解が有力となっている。

1868年(慶応4年)日本は江戸幕府が滅亡したことによって、天皇中心による政治を目指して薩摩藩と長州藩が政権を握ることになりました。

その時、今後、日本の政治を進め方を書いた文章です。

それが五箇条の御誓文です。

  1. 広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ。
  2. 上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フベシ。
  3.  官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ゲ人心ヲシテ倦マザラシメンコトヲ要ス。
  4. 旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クベシ。
  5. 智識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スベシ。

現代語訳

1) 広く会議を開いて、すべての政治は人々の意見によって行われるようにしましょう。。     2) 上の者も下の者も心を1つに、国を治めていきましょう。                   3) 身分にかかわらずに、誰もが志を全うし、その意思を達成できるようにしましょう。       4) 今までの悪しき習慣はやめて、国際社会に合った行動をしましょう。               5) 今までの悪しき習慣はやめて、国際社会に合った行動をしましょう。

新しい日本の夜明け

人の世に、失敗ちゅうことは、ありゃせんぞ❣

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