――――『日本の心に目覚める五つの話』松浦光修著 より「幕末前夜」の学びを深めさせて頂きます。

「禁中並公家諸法度」(きんちゅうならびにくげしょはっと)
徳川幕府から朝廷に押し付けた法律―――これによって寄って、朝廷が持っていた様々な権限が幕府に寄って奪われている状況でした。
弘化三年(1846) 仁孝天皇が、四十七歳で亡くなり。その後を孝明天皇(16歳)が践祚――(皇位継承)
その頃、白人諸国がアジア侵略の力を注ぎ、日本にも暗い影を落とし始めました。
弘化三年、日本への外国船の来航は次の通りです。
四月・・・イギリス・フランスの軍艦、琉球に来航。
五月・・・アメリカ、東インド艦隊司令長官・ビッドル、浦賀に来航、通商要求。
六月・・・フランス、インドシナ艦隊司令長官・セシュ、長崎に来航。
デンマークの船、相模の鶴ヶ丘沖に来航。
八月・・・イギリスの軍艦、琉球に来航。
ちょうどその頃・・・朝廷が、孝明天皇が践祚されて、半年後の弘化三年八月、突然、幕府に‟命令”(御沙汰書)の文書を書き送られたのです。以下内容です。
「近ごろ外国船がしきりに来航しているという。幕府は我が国の守りを、きっちんと整えている・・・と聞いているから、大丈夫だと思っているが、それでも、余りにも外国船の来航が頻繫なので、心配でならない。
どうか幕府は、外国を侮ることなく、かと言って・・・恐れることもなく、今後も国を守りを一層強化して欲しい。くれぐれも神国である日本を、傷付けることがないよう、そして天皇陛下に、ご安心いただけるよう、努めてもらいたい。」
言葉は丁寧ですが、これは、やはり‟命令”です。
幕府からの、“報告をうける”のでなく、幕府へ‟命令を発した”のです。こう言うことは、勿論、江戸時代では、初めての事でした。
おそらく、孝明天皇は、国の行く末を心配されるあまり、勇気を奮って前例のない‟命令”を出されたのでしょう。まだ幼い天皇でしたが、孝明天皇は、”私が国の最高責任者である”と言う御自覚と、それにともなう責任感を、しっかりとお持ちになっておられたのです。
のちに吉田松陰はこんな和歌を残しました。
「かくすれば かくなるものと 知りながら やまにやまれぬ 大和魂」
幕末から明治維新にかけて、日本の多くの若者たちが志を掲げ「やむにやまれぬ大和魂」を発揮しました。そして、激動の時代が幕を開けました。しかし、一番最初に「やまにやまれぬ大和魂」を発揮されたのは孝明天皇では無かったでしょうか。
天皇とは“祈り”と共にある御存在です。今も殿下は、年に数十回の「祭り」をなされてています。その特別な「祭り」だけではなく、天皇の日常がそのものが、元日から大晦日まで“祈り”と共にあるのです。
孝明天皇の日常もそうでした。天皇は、朝起きて、身づくろいをされると、まず神仏を拝され、そして、ご先祖の御霊の眠る泉涌寺を遥拝(離れたところから拝むこと)され、そのあと、ご朝食・・・という毎日でした。
践祚の翌年(弘化四年)は、石清水八幡宮の臨時祭の年に当たっていて、その年の春に行われる予定のお祭りでした。孝明天皇の即位式は、その年の九月に行われる予定でしたから、「即位式の前に石清水の臨時祭を行うのは、いかがなものか・・・」という意見があって、その年の臨時祭は行はれないはずでした。
けれども、朝廷は幕府と交渉し、臨時祭を行うことに決めました。孝明天皇は、‟石清水八幡宮の臨時祭は、国家を脅かすものを、取り鎮めるためのお祭りだから、今こそ、ぜひ行うべきである”と、お考えになったのでしょう。その時、天皇が神に申し上げられた祈りの言葉が残っています。
「異国は、どの様な計略で、我が国に迫ってくるかわからず、寝ても覚めても、私は我が国の事が心配でなりません。軍神である八幡大菩薩さま・・・、我が国の、この困難な状況をお察しください。
そして、もいも、また外国船がやってくることがあっつたら、風を起こし、波を起こして、異国船を日本から追い払い、四方の海を安らかにし、世の中を落ち着かせて下さい。そして、どうか皇室が幾久しく続き、国民が楽しく暮らして行けるよう、お守りください」(『光明天皇記』弘化四年四月二十五日)
「寝ても覚めても」、国と民の平安と幸福を願い、熱い祈りを神々に捧げられる・・・。
その時、天皇は、17才でした。その後も御生涯、この御姿勢は変わることは有りませんでした。
ところで、この祈願分には、「異国船を日本から追い払い、四方の海を安らかにして、天下を落ち着かせて下さい」と在ります。これは、天皇の「攘夷」の意思を現した言葉です。「攘夷」とは「夷」(野蛮な外国人)の侵略を「攘」う(追い払う)と言った意味です。
いわば「うちの家に、許しもなく、勝手に上り込んでくる様な無礼な人は、さっさと出て行って貰います。」と言う主張。しごく当然な主張では在りますまいか。
「攘夷」とは」
この「攘夷」という意味を取違ていますと、孝明天皇や吉田松陰や幕末と言う時代も・・・明治維新の本質も、本当のところが、たぶん何も解からないでしょう。これは、我が国の歴史上とても重要な言葉なのです。いまは、ほとんどの人が大きな誤解をしております。世間の‟良識派”と言われる人でさえそうなんです。例えば、作家の司馬遼太郎さんも、「偏狭苛烈な攘夷というナショナリズム」(『世に棲む日々』)などと書いています。つまり、極めて‟マイナス・イメージのもの”として書いております。
これまで私は、世間に広まっている誤解を、何とか解こうと思いでいろいろと発言してきましたが、もしかしたら今の日本の歴史学者の中で、そういう発言をしているのは、私くらいのものかも知れません。その主張について正しい解釈をされている方の文章を、一つ記載しておきます。
「近頃の人は、日本の攘夷思想を、未開野蛮な頑迷なもののように思って軽蔑す人が多いが、これは誤っている。・・・日本民族が国際通交を始める前に、まず攘夷の精神によって、独立と抵抗の決意を鍛錬した事は、決して無駄だったのではない。この精神的準備の前提なくしては、おそらく明治の日本は、国の独立を守り抜く事が出来なかったであろし、植民地化せざるをえなかっただろう。」(葦津珍彦『大アジア主義と頭山満』)
もしも「攘夷」という考えがなければ、明治の日本は「国の独立」を守れず、外国の植民地」になってしまっていたかも知れません。それは多分本当の事だったと思います。
そもそも、「幕末」と言うと私達は、国民全員が”日本への愛と誇りを”持って勇敢に生きていたかに思われがちですが、実は本当の「志士」と言うのは、その頃の国民の「0.01%」程、つまり、一万人に一人です。そのわずかな志士が「攘夷」を主張していたのです。
それによって、我が国の「国の独立」は守られました。その頃、「志士」以外の国民はどう考えていたのでしょうか!残念ながら、ほとんどの国民には、深刻な危機感は全く有りませんでした。
「和を以て貴しとなす」とても素晴らしい、日本人の美しい心のあらわれです。しかし、時として裏目に出ることもあるのです。自分では意識せず、何となく「ひたすら相手に妥協することが良い事」の様に思い込み、相手の言いなりになってしまうのです。
その状態は、一見、”和”のようですが、実は“迎合(自分の考えを曲げ、他人に気に入られようとする事)”とも取れ、それがさらに”卑屈(自分を卑しめて服従、妥協する、意気地のない態度)”と言う事にもなるのです。心が萎縮(衰えしなびて縮む事)、相手が強い態度で臨んで来ると、どんどん引くしかなく、とうとう最後には相手の「言うがまま」・「なすがまま」の状態になってしまうのです。
幕末の頃、ひたすら、いわば「諸国民の公平と信義」に期待する人達もいました。しかし、白人諸国のやってきた跡を見れば、彼らにアジア侵略の意思が有ったことは、誰が見ても明らかです。それでも、“厳しい現実”を認めたがらない人達も多くいました。
いつの時代でも、”厳しい現実”に直面する事は、余程、”心の強い人”にしか、出来ない事なのかも知れません。

学は人たる所以を学ぶなり 吉田松陰
(学問とは、人間いかにあるべきか、いかに生きるべきかを学ぶ事)
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