我が日本学

歴史哲学
楠木正成像 皇居前

日本の心

「日本の心に目覚める五つの話」松浦光修著より 

楠木正成の「楠公精神」の歴史を学び、深めて参り参ります。     

  「楠公精神」

 英雄の中の英雄

 わが国の歴史の上で、‟英雄の中の英雄”と呼ぶべき人物は誰か?と問われれば、私は、ためらうことなく、楠木(くすのき)正成(まさしげ)と答えるでしょう。それは、たぶん昭和20(1945)年アメリカに敗戦し、心を改造させられてる前の日本人なら、皆そう答えたであろうと思はれる・・・極めてオーソドックスな答えでした。

 楠木正成ほど、長い間、圧倒的多数の国民から愛され続けた歴史上の人物は、まずいないでしょう。ですから、昔の人々は、楠木正成のことを敬意を込めて「楠公(なんこう)」とか、「(だい)楠公(なんこう)」(「小楠公」は正成の子、楠木正行)とか「楠公さん」などと呼んでいました。  正成に象徴される気品高い精神の事を「楠公精神」とも呼んで、讃えていたのです。

 残念なことに、今ではどの言葉も‟忘れられた言葉(忘れさせられた言葉)”になっています。けれども私には、どう考えても、楠木正成(以下「楠公」といいます)に象徴される「忠」の精神こそが、真の意味での‟日本の心の柱”ではないか、と思われてなりません。

 楠公が歴史に登場する場面は、まことに英雄と呼ぶにふさわしい、颯爽(さっそう)ととしたものです。元弘元(1331)年9月、後醍醐天皇(ごだいごてんのう)拝謁(はいえつ)するなり、いきなり天皇に向かって、こう申し上げました。

「正成一人(いちにん)、今生きて有りと聞こしめし(そうら)はば、(せい)(うん)つひに開かるべしと、おぼしめされ(そうら)へ」(『太平記(たいへいき)』)

――――解説「私一人が、まだ生きていると、どこかでお聞きになったなら、陛下のご運命は、いずれは、開かれるこ事になると、お考え頂いて、結構です。」          

楠公は、その後、誠にその言葉どうりの活躍を続け、遂に「建武(けんむ)中興(ちゅうこう)」(後醍醐天皇による政治体制の事)という大事業を導く大きな働きをしたのです。

 しかし、楠公は歴史の表舞台に登場してから、建武三(1336)年5月25日、兵庫の湊川で、これも、まさに英雄らしい最後を遂げるまで、どれ程の期間であったかというと・・・わずか四年十か月に過ぎません。

日本人が日本人である限り、残し続けたい精神とは何か(残し続けなければならない精神とは・・・)?色々ありましょうが!  必ず入れなければならないものが「楠公精神」であり、さらには、その真髄である「七生(ななしょう)報国(ほうこく)」という言葉だと信じます。

「七生までも、また人間に生まれて・・・」

はじめに、「太平記」の楠公の討死の場面から、読んでみましょう。

「正成()(じょう)に居つつ、舎弟の(まさ)(すえ)に向かって『そもそも最後の一念に()って、善悪の(しょう)を引くといへり。九界(くかい)の間に何か()(へん)の願いなる』と問ひければ、正季、からからとうち笑うて、『七生まで、ただ人間に生まれて、朝敵を滅ぼさばや、とこそ存じ候へ』ともうしければ、正成、よに嬉しげなる気色にて、『罪業深き悪念なれども、我もかように思ふなり。いざさらば、同じく生を替えて、この本懐を達せん』と契って、兄弟共に刺し違へて、同じ枕に臥しにけり」(巻十六)

―――解説「正成は上座にあって、弟の正季に向かい、『聞くところによれば、人は、人生の最後の時の一念によって、次に往く世界の善し悪しが決まるらしい。次に往く世界と言っても、九つの世界があるそうだが、それらの中で、お前の望みは、どこに行く事か?』と尋ねると、正季は、からからと笑い、『私は七回まで、やはり同じ人間に生まれて、天皇様の敵を滅ぼしたいと思っています。』と答えた。それを聞くと、正成は、誠に嬉しそうに、こう言った『罪深い悪念ではあるけれど、実は私も、そう思っていたところだ。さあ・・・さらばだ! お前も私も、同じ様に、この人生を替えて、その本懐を遂げることにしよう』と誓い、兄弟、刺し違えて倒れ伏した。」

注)「九界」仏教では死後の世界を九つ有ると言います。

 ①地獄(じごく)→②餓鬼(がき)→③畜生(ちくしょう)→④阿修羅(あしゅら)→⑤人間(にんげん)→⑥天上(てんじょう)→⑦声聞(しょうもん)→⑧(えん)(かく)→⑨菩薩(ぼさつ)

普通の人間は①~⑥の世界を「六道(ろくどう)輪廻(りんね)(迷いの世界)」―します。それ以上は修業で「悟り」を得た者だけが行ける世界です。

地獄絵

 結局、人間世界は「迷いの世界」です。その頃、常識的には「今生」を終えたら「解脱」して「迷いの世界」「輪廻」から脱出して「極楽往生」する事が、仏教的救いでした。

ところが、楠公兄弟は「七回までも人間に生れ・・・」と言います。つまり、‟仏教的救い”の拒否宣言です。

楠公兄弟は「私達は死んでも、極楽往生などするつもりはない、何度でもこの迷いの世界『人間界』に立ち返り、天皇の敵と闘い続けたい」と言っているのです。

おそらく、最後を迎える時の、二人の心の内にあったのは、悔しさでも、虚しさでも、怒りでも、ましてや恐怖や不安でもなかったでしょう。

二人にあっては「お互い、今回の人生、よくやったなぁ・・・」また「お互い、次の人生でも、しっかりと戦おうな!」といった、‟武者震い”するような気分では無かったでしょうか!

来世も、また出会い力を合わせて、天皇陛下の敵と戦う。これ即ち世界の平和を導くために闘う。これこそ人間の生きざま・死ざまとしての、鏡とすべき事ではないでしょうか。

死は終わりではなく、新たな闘いの始まりに過ぎない・・・、その様な感覚は、昭和20年までは、日本人の心の中に生きていました。この事を知っておかなければ、我が国の歴史の大切な部分が、全くわからのくなると思います。

 さて、その「七生報国」に対して、少し説明を付け足しておきます。「太平記」では、最初に見たように「七生まで、ただ同じ人間に生まれて朝敵を滅ぼさばや」とあり、要約すれば(なな)生滅(しょうめっ)(てき)となります。

しかし、江戸時代になりますと、頼山陽(らいさんよう)の『日本(にほん)外史(がいし)』では、このように表現されています。

「願わくば七たび人間に生まれて、()って(こく)(ぞく)を殺さん。」

これを、要約すれば七生(ななしょう)(さつ)(ぞく)でしょう。

それが、明治時代になり、広瀬(ひろせ)武夫(たけお)氏は、こんな表現になります。

(まこと)なる(かな)(まこと)なる(かな)(たお)れても()まず。七たび人間に生まれて、(こく)(おん)(ほう)ぜん」(感を書す)

ここに、七生(ななしょう)報国(ほうこく)が生まれたわけです。

時代によって、表現は少しずつ変わって行きますが、貫かれた精神は、一つのものです。

国民の思想にも、人体に骨と肉があるように、「骨」や「肉」に当たるものが有ると思います。「骨」や「肉」とて、様々ありましょうが、この楠公兄弟の言葉が、のちの時代の、国を思う日本人の思想にとって、さしずめ「背骨」になっている事は、今あげたわずかな例からも、御理解頂けたと思われます。    

―――楠公精神のこの死生感、これは我々、今現に生きている者にとって、大切な要素と考えます。生きているものは、必ず死にます。それをどう見据えて生きるのか!                                                         ある人は「こころざし」と仰る。そう「志」なのです。

己に真志あれば、無志(虫)はおのずから引き去る。恐れずにたらず。吉田松陰                                         

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