
――――日本學を深めるために、必要欠くべからずものとして、やはり「皇室(天皇陛下)と神社」の存在を理解する事が重要な要素と考えます。天皇陛下(皇室)のお仕事は❣ 神社の存在は何のためにあるのか? 多くの方々が疑問を感じておられるのではありますまいか。 天皇陛下のお仕事の具体的な内容をご紹介したいと思います。

天皇陛下の祈り
陛下は今日もまた・・・・、私たちの幸せを、祈ってくださっています。上皇陛下が、平成17年の正月にお読みになった御製を、挙げておきましょう。
『明けそむる 賢所の 庭の面は 雪積む中に かがり火赤し』
雪の中・・・暖房もない神殿での「祈り」です。ご高齢で、しかも御身に病を抱えられながらの「祈り」です。
そういえば昔、私は愛知県の、ある神社の宮司さんから昭和天皇の、こういう逸話を聞きました。日本に「オイルショック」が襲った頃の話といいますから、おそらくしょうは40年代の話でしょう。
寒い冬の事でしたから、陛下がお着替えをなさる部屋には、当然のことながら、石油ストーブがつけてありました。それを見て陛下は「そのストーブの石油を、国民に回すように・・・」とお命じになり、そのあと、その冬は、とうとうその部屋のストーブを、一度もお使いにならなかったそうです。
こうゆう話を聞くと、普通の日本人なら、ただ素直に「ありがたい・・・」と感じるはずです。「いい国に生まれたな・・・」という感謝の思いが、胸に満ちるはずです。
けれども、その時、私の心の中には「ただ感謝しているだけで・・・、いいのだろうか?」
陛下は私達国民の幸せを、日々祈って下さっています。「ならば、私達国民一人一人は、その御恩に、どう報いていけばよいのか?」と、それは、なんとなく悲しく、やるせない気分です。
私は、いつも「感謝の心」と「報恩の行い」は一つのものと言っています。
「報恩の行い」とは、特別なことではなく、一人一人の国民が、日本人としての“つとめ”をそれぞれの立場で、りっつぱに果たして生きること、・・・それが基本です。
今、私達はその“基本”をちゃんと務めているでしょうか!
私達は「私は陛下に、喜んでいただける様な生き方をしているでしょうか。」自らに問うてみる必要は無いでしょうか!
神仏や皇室を尊んでいるでしょうか! 先祖を尊んでいますか!
今、「誠実」ですか! 今、「勤勉」ですか!「正直」ですか!
わが国の人々の心は「唯物思想」の闇に覆われています。しかし、闇を呪ったところで、闇は消えません。
闇を消すには、灯りをともすしかありません。お互いに「暗い!暗い!」文句やぐちをいって嘆いても始まりません。
黙って立ち上がり、灯りをともすような・・・そんな人になりましょう。
一人一人のともす灯は小さくても、それが、やがて十・・・百・・・千・・・と増えていけば闇の中から浮かび上がり、世界に高貴な光を放つ「日ノ本」となり、再び蘇るに違いありません。いつか必ずやその日が来たら事を信じます。
たとえ、向かい風が吹こうと・・・激しい雨が降りそそごうと・・・私たちの日本国が育んでくれたの知恵と勇気を持ち、一歩一歩あゆみを開始しようではありませんか。
『あなたは神によって、神のために創られた。そのことを理解しない限り、あなたの生涯には意味が無い。』 石黒マリーローザ 「聖書で読むアメリカ」

祈りの力
しかし、わが国のひとびとが、どんどん“信仰オンチ”になっている一方で、今もわが国の中枢では、深い‟祈り”が続いています。
何しろ天皇陛下は、百二十六代にわたって、日々、真剣な‟祈り”をささげられていらっしゃるのですから、その「祈り」の層の厚さは、どんな国のどんな元首とも、比較になりません。
天皇はただ一方的に、人々の幸せを祈って下さるのみで、それに対する“見返り”などは何も求められません。それは無条件の愛…ただ与えるのみの愛です。「アガペー」「慈悲」
「祈り意味」が解からない人は、「天皇の意味」も解からないでしょう。そして、「天皇の意味」が解からない人には「日本の意味」も解らず、やがては「日本に生まれた‟私”」の意味も解からない・・・ということに、なるのではないでしょうか。 「日本の心を思い出す六つの話」松浦光修著より
――――私の為の言葉です。(皇室、天皇陛下の事をじっくりと考えたことは、この年で初めてです。 ―――情けない限りです。)
――――私達は目に見えないものに、どれ程に守られて生かされていることか! 天皇陛下の祈り、自然の恵み、周りの人達の気ずかい、行政のサービス 等々数えたらきりがありません。日本国の民として生を受けたこと感謝せずにおれないではありませんか。
ヨーロッパの森にも、かっては古代ゲルマンの神々のお祭りがありましたが、キリスト教という「一神教」が入ってくると、すべて滅ぼされてしまうのです。いわゆる「高等宗教」とか「世界宗教」と言われるものが入ってくると、地元の神様は、みんな滅ぼされてしまうのです。
以前、ブータンから国王が日本に来られました。ブータンという国は、現在、仏教国ですが、それ以前、ブータンにも「神様」がいました、ところが仏教が入ってくると、「神様」が「仏様」の‟下僕”のようにされたのです。ヨーロッパでも、昔からいた「神様」が、‟悪魔”の様な存在にされました。
やがてヨーロッパでは、‟キリスト教こそが頂点に立つ”という信仰の形になってしまいまい、昔からいた「神様」とのつながりが、しだいに切れていくのです。ヨーロッパでも、古代の人々の信仰と今の人々の信仰は、かなり違います。
ところが、日本は切れていません。日本という国は、近代国家の中では、たった一つの ‟神代と現代がつながっている国”です。その連続性を象徴するのが皇室と神社です。神社は全国で、ほぼ八万社ほどあります。その神社の中心が伊勢神宮です。
つまり、伊勢は「世界の聖地」といえるのです。ですから欧米の知識人が神宮を参拝すると、‟尊い何か”を感じるようです。イギリスのアーノルド・トレンビー(歴史哲学者・1889~1993)伊勢神宮に参拝された時、こう言われた。
「この聖地おいて、私は、あらゆる宗教の根底的な統一性を感得する。」

キリスト教・・・イスラム教・・・仏教・・・、世界には、たくさんの宗教があるけれど、その根っ子は一つで、その根っ子が伊勢にある・・・という事を、トインビーは言ってる訳です。“一つの宗教の根っ子”ではなく“あらゆる宗教の根っ子”なのです。「星の王子様」の言葉どうり“心で見る人”にはには外国人でも尊いものが「見える」のです。
なぜなら、わが国の神道のような信仰は、昔は世界中にあったのです。 以前、リトアニア大学のアンドレ・ヤウスクス先生を、伊勢神宮にご案内した時、「始めてきたのに、ここは“なつかしい”場所です」と言われました。リトアニアという国は、小さな国です。“ヨーロッパの中でも、最後の方でキリスト教化された国”ということです。ですから、ヨーロッパでも、近い時代まで、いわば“ヨーロッパの神道”が残された場所なのです。リトアニアの方々は、伊勢神宮を訪れ「なつかしい」と感じる力を、まだを持っているのかも知れません。
つまり、世界の人々にとっても伊勢神宮は、“なつかしい聖地”なのです。
『日本の心を思い出す六つ話』「伊勢神宮と日本の心」 松浦光修著より

『日出国 ――― 日本』
コメント