我が日本学  「大義」1

歴史哲学
「大義」表紙

第二十章

万人ばんにんひとしく千古せんこ大疑たいぎとなすは死生しせいなり、宗教乃至学問しゆうきょうないしがくもん極致きょくち死生透脱しせいとうたつにあり、しか議論百出容易ぎろんひゃくしゅつよういけっせざるもの生死せいしなり。孔子曰こうしいわく、『いませいらず、いずくんらんや』と。永遠えいえんなぞ死生しせいなり。
 死心身しんしんめつなり。せい心身しんしん活動かつどうなり。すなわ心身しんしん左右さゆうせられざる無執着むしゅうちゃくこそなり。さら換言かんげんすれば、心身しんしんかかわらず無執着むしゅうちゃくなる心身しんしん活動かつどうめつひとし。これ心身活動しんしんかつどう極天きょくてんなり。『生死一如せいしいちにょ』とはじついなり。すなわる、生死せいし生身なまみにして解決かいけつすることうぃ如何いかにして此処このところいたるか、いわくただひとつなり、心身しんしん放棄是ほうきこれなり。自己滅却是じこめっきゃくこれなり。
 関山国師かいざんこくしは、ひと生死観しせいかんうあれば『吾這裏無生死わがしゃりにせいしなし』と一喝いっかつするをつねとせり。むべなるかな心身放棄しんしんほうき達人たつじん生死せいしなし。生死せいし茶飯事ちゃはんじにもあらず、将又余事はたまたよじにもあらず、唯無生死一ただむせいしひとつのみ。ただ大死一番絶後だいしいちばんぜつごよみがえりたる大達だいたつ死生観しせいかんにして、凡庸ぼんよう窺知きちゆるさず。達人たつじん生身なまみにして観自在生死透超かんじざいせいしとうちょう凡百ぼんひゃくは 心身死滅しんしんしめつして無執着むしゅうちゃくいきるも、菩薩ぼさつたりず、ほとけたりず、かみたることをず。如何いかんとなれば  衆生済度しょじょうさいど力無とからなければなり。のこおききし行為乃至著述こういないしちょじゅつにして、皇国こうこくのため憤起ふんきせしむるにるものあれば、ひとかみなり、菩薩ぼさつなり、ほとけなり。
 大楠公だいなんこうぎたるほとけなく、和気公わけこうまさりたるの菩薩ぼさつなし。酔生百年無死千年すいせいひゃくねんむしせんねんのちなるも、人長生ひとちょうせいひととはうをず、けるしかばねぎず。形骸けいかく短命たんめいなるも、なが人心じんしん支配しはいし、後世こうせい感憤善導かんぷんぜんどうするあり。小楠公しょうなんこう景岳けいがく松陰しょういん諸公等殉皇しょうこうらじゅんこう傑士けっしは、皆長生不死みなちょうせいふしかみなり。一切いっさい束縛そくばくより脱却だっきゃくせる境地きょうちなるも、凡傑両者隔絶ぼんけつりようしゃかくぜつすること天地遥てんちはるかなり。                                                                                           殉皇じゅんのうは、不死永生ふしえいしょうしん無生死むせいし神仏しんぶつうべし。
 宗教しゅうきょう無執着むしゅうちゃく無生死むせいしひとつくるをもっ新生命しんせいめいとなす。しかるに、いま宗教しゅうきょう心身放棄しんしんほうき真面目しんめんもくなく、愈々執着いよいよしゅうちゃくおおくし益々生死ますますせいしひとたらしめ、せい区別くべつして転生てんせいき、極楽往生ごくらくおうじょう執着しゅうちゃくせしむ、亡国宗教なぼうこくしゅうきょうり。皇国民こうこくみんたるもの、生死一貫せいしいっかん無窮むきゅうに、皇運こううん扶翼ふよくせざるべからず。おもわずして殉皇じゅんのうつとめずして殉皇じゅんのう、一も殉皇、二も殉皇、寤寐ごびつねにに殉皇、行住坐臥共ぎょうじゅうざがともに殉皇、かくごと人物じんぶつを 絶忠ぜっちゅうという、絶忠の三世さんぜなく、生死なく、常に殉皇なり。                                                                                                                             の士にして、無窮むきゅうに、皇運を扶翼ふよくし、無窮に国民を指導誘掖しどうゆうえきし、真の日本人を造り、『八津紘一はっこういちう』の世界を 皇国たらしむるを得るなり。
 絶忠ぜっちゅう死生しせいなし、生死あるは絶忠にあらず。死生観を云々する間は、此の人未だ純一無雑じゅんいつむぞうあらず。  心身放擲しんしんほうてきに非ず。殉忠じゅんちゅうに死生なし、唯々ただただ純忠じゅんちゅうに生きよ。
 否、『生きよ』というも、手ぬるし、唯々絶忠ただただぜっちゅ。忠もまた無し、是れ真の絶忠なり。

 たちばなの 曙賢あけみ 先生の歌
   大皇おおきみの しこ御楯みたてというものは  かかるものぞと すすめ真前まさきに(昭和十二年、九、四、)

開山国師:開山慧元(えげん)。南北朝時代の臨済宗の僧                                                                                    大達:悟りを得た者、高僧                                                                     窺知:理解、うかがい知る事                                                            酔生百年無死千年:ただ、長く無為に人生を過ごすこと                                                     景岳:橋本佐内。1834~1859年。福井藩士。安政の大獄で処刑                                                     松陰:吉田松陰。1830~1859年。長州藩士。思想家、尊王論者。安政の大獄で処刑                                             八紘一宇:「天下を一つの家にする事」または「全世界を一つの家にすること」を意味する

日出国 日本

――――最近、この「大義」の著書を手元に届きました。もちろんこの「大義」も戦後、GHQにより焚書処分され、日本から消え去った本の一冊です。特に「この著書(大儀)だけは絶対に逃す事なく焚書処分せよ」命令を受けたものと聞きます。それを、この度、(株)経営科学出版さんによって出版されました。それで、私でも手に取る事が出来るようになりました。 

 「万人斉しく千古の大疑とはすは生死なり」から始まる二十章ですが、中を拝読しますと、魂に突き刺さる言葉の連続です。もっと早くこの書籍に出会えたかった。西洋の文化の限界を長く感じられた日々でした。ゴッホやゴーギャンが最期、悲劇的な結末を迎えた訳ですが、彼らが求めようとして‟魂の真の救い”はここにあったのではと思っております。遠く離れたヨーロッパやタヒチでは到底、近づき得ない心境ですが。 もし、彼らが生きていて、「皇道」の素晴らしさ、「死生観」を習得しえたとしたら、世界の美術史は大きく変わっていたことで有りましょう。

「我々は何処から来たのか、我々は何者か、我々は何処へ行くのか」ポール・ゴーギャン

 それにしても、GHQによって、ずいぶんと貴重な、日本文化が消され、追い払らわれたものです。                                    戦後80年、「憲法改正」が国会で議論され始めました。これは、重要な事であります、これから生まれる日本人のため、また移民の増加に伴う事。共に合わせて考える必要な問題です。議員の方々はじめ我々、一般国民も関心を持って対処する重要な課題です。ぜひこの「大義」を接して先人達が残して下さった文化、思想を感じ、学び取って頂けたら幸いです。
 尚、著者、杉本五郎陸軍中佐ほこの「大義」を書き上げた後。数日後、戦闘中に手榴弾炸裂で一度倒れましたが、刀剣を杖として再び立ち上がり、東方にに正対し、挙手敬礼のまま戦死されませた。

 何回かに分けてこの「大義」をブログ上に取り上げる予定です。

第二十章(現代語訳)
死生観
 生と死は古来より人類の大いなる疑問であり、宗教や学問の究極テーマであると述べる。真の死
とは肉体の滅びではなく、心身の活動に左右されない「無執着」の境地であるとする。「生死一
如」とは、身心の完全な放棄(自己滅却)によって達せられる、身心活動の極致としての無執着
であると説く。禅師、関山慧玄の言葉を引用し、達人には生死の区別はないとする。しかし、単
なる無執着では菩薩や神にはなれず、後世の人々を皇国のために奮い立たせる行為や著作を遺し
て初めて真の神仏となり得ると主張する。大楠公、和気公、小楠公、橋本景岳、吉田松陰ら殉皇
の傑士こそが、長生不死の神であると称賛する。皇国民は死生一貫、無生死の絶忠の士であるべ
きだと結論付ける。
 死生(生と死)は、古来より万人が抱く大いなる疑問であり、宗教や学問が探求する究極のテ
ーマである。
死とは心身の滅びであり、生とは心身の活動である。しかし、真の死とは、心身の活動に左右
されない無執着の境地であり、心身の滅び(単なる肉体の死)ではない。
生死は本来一つ(生死一如)である。それは身心の活動の極致、すなわち身心に一切囚われな
い無執着の境地に至ることである。それを知る道はただ一つ、身心の完全な放棄(自己滅却)
である。
 禅師、関山慧玄は死生観を問われ「私のここには生死はない」と喝破した。心身を放棄した達
人には生死の別はないのである。
しかし、死を超えた大達人の境地は凡庸な者には窺い知れない。
生身のままで生死を超越し、心身が死滅しても無執着の境地にある者(観自在菩薩のような存
在)は、菩薩や仏や神とはなり得ても、衆生を済度する力はない。
後世の人々を皇国のために奮い立たせるような行為や著作を遺した者こそ、真の神であり、菩
薩であり、仏である。
 大楠公や和気公こそが、真の仏であり菩薩である。形骸は滅びても、その精神は永く人心を支
配し後世を導く。小楠公、橋本景岳、吉田松陰ら殉皇の傑士もまた、長生不死の神である。
殉皇の士は、不死にして永生、真に生死のない神仏であるといえる。
 宗教の真髄は、無執着‧無生死の人を創り出すことにある。しかし現代の宗教は、心身放棄の 真髄を失い、かえって執着を増長させ、生死の区別を説き、極楽往生に執着させる「亡国宗 教」となっている。 皇国民たる者は、死生一貫、無生死の絶忠の士でなければならない。「純忠に死生なし、唯々 純忠に生きよ」

絶筆(杉本五郎陸軍中佐)                                                               「汝、吾を見んと要せば、尊皇に生きよ、                                                          尊皇精神ある処、常に我在り」(遺品手帳より) 

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