『SADHANA』―“東洋の瞑想とキリスト者の祈り” アントニー・デ・メロ
1931年 インド、ボンベイに生まれる。
1947年 イエズス会に入会
1961年 司祭叙階
哲学をスペイン・バルセロナで学ぶ。
心理学をアメリカ・シカゴで学ぶ。
インド、プーナ市にて司牧的カウンセリング研究所(サダナ研究所)を主宰。
東洋と西洋の霊性の統合。心理学とイグナチオ的霊性の統合の試みによる世界的な霊的指導者。『SADNANA(東洋の瞑想とキリスト者の祈り)』は古典的名著です。
1987年6月2日 ニューヨーク・フォーダム大学にて客死。

私は20年程前(その頃、某キリスト教会に所属)に、このアントニー・デ・メロさんの著書に接しておりました。ただその頃はこれと言って強烈な感銘を受けた記憶はありません。だだ最近、エックハルト・トールさんの著書に触れてから、とてもメロさんの著書にも気になり、本棚に埋もれていた本を手に取って見ました。
『心の泉』【瞑想への招き】70「明け渡し」の詩が有ります。訳:古橋昌尚・川村信三
まずは、沈黙に至りつくことから始めましょう。
そのために、ありのままの自己、本来のあなた自身に戻ってみましょう。
すなわち、現在、たった今に生きることに務めるのです。
そこで、自分にこう問うて見てください。
たった今、いったい自分はどこにいるのか?
私は、何をしているのか?
今、私は何を考えているのか?
自分の身体は何を感じているのか?
私は、どんな仕方で呼吸をしているのか?
沈黙というものは、直接に導き出されたり、求めて得られるものではありません。
ただ、この今に気づいて見てください。
ただ、意識に目覚めていてください。
そうすれば、沈黙の方から自然に顔を現す事でしょう。
あなたが今、この沈黙の内に、神との交わりをもちたいと望むならば、
まずは、この様に想像して見てください。
あなたが息を吐き出すたびに、全身の力を抜き、自分自身を全ての明け渡す・・・・
――息をひとつ吐き出すたびに、あなたは、神に「ハイ」と答える事になる・・・・
それは、今日あるがままのあなた自身に「ハイ」とうなづく事。
――神があなたとい
人間をおつくりになったことに対して「ハイ」とうなずく事であり、
また、あなたが、今日あるがままの貴方になった事に対してうなずく事でもある・・・
それは、あなたの過去の全てに対する肯定でもある・・・・
息を吐き出すたびに、万事うまくゆくと意識しながら、全てを委ねて下さい・・・・
心配したり、心を騒がせる事を一切やめ、平安が心を満たしてくれる様にと願いましょう。
私たちの平安、それこそは神のみ旨にかなうものなのだから・・・・

『心を泉』【瞑想への招き】5「神の器」 訳:同
私は、神の特別な種類の身体を与えてくださるようにと願う。
そして、今、自分が持っている身体を改めて手に入れる。
その身体について自分はいったいどんな思い、どんな感情を抱くだろうか・・・・
自分の身体を忌み嫌った聖人たちの話や、
身体に対して偏らない態度をとった聖人たちの話をよく耳にする。
それでは、私は、身体に対してどんな態度をとるだろうか・・・・
また、どうして、その様な態度を取るようになったのか・・・・
今、かりに自分の人生の青写真を描いて見ることにしよう。
その中で、私の身体はどんな形で助けとなり、あるいは、妨げとなっているか見てみよう・・・
身体が話すことが出来たなら、その青写真について、いったい何と言うだろう・・・
自分の身体と私自身との関わり合いは、
良かれ悪しかれ、私の人生にかなり大きく作用している。
そのかかわりをたて直し、あるいは深めるのに、一番良い方法、それは対話である。
私の身体は、素直に全てを包み隠さず打ち明けなければならない・・・
私に対する怒り・・・恐れなど・・・
私の方も同じように素直に全てを明らかにしなければならない・・・
私たちは、この対話を根気よく続ける。
互いに和解し、もっとよく理解し、愛し合うようになるまでの・・・
そして、互に、相手に対して望んでいること、期待する事を、
はっきりと言い表さなくてはならない・・・
この対話を終わる前に、私は、自分の身体に、知恵の言葉を与えてくれるように願う。
聖書には、私の身体の霊性についてはっきりと記されている。
私の身体は神の宮であり、霊性の住まいである、と。
それは、一体どんな意味なのだろうか・・・
さらに、私たちの身体は自分のものでは無く、キリストのものである、とも言っている。
それゆい、キリストは、私の事を指して、
「これは、私の身体である」と言う事をもできるのだ。
この言葉は、一体どんな意味なのだろうか・・・
私は、自分が一日を過ごす有様を眺めてみる。(食事をし、洗濯し、遊び、眠りなど・・・)
しかも、自分の身体は「神の家」であるという事実を意識しながら眺めてみる・・・
あるいは、自分の身体を、まるで最愛の人の身体であるかのようにして、
いたわり、十分に注意を払いながら、眺めて見る・・・
最後に、自分の身体について思うところを神に話してみる・・・
そして、神が私に語られるままに、耳を傾ける・・・
――如何でしたでしょうか!“アントニー・デ・メロ”さんの詩。 美しい言葉の響き合いの中に、自然と瞑想の世界に引き入れて下さいませんか! 長い時間、私の本棚に眠っていた、素晴らしい著書でした。
これも、“エックハルト・トール”さんの著書に出会いによって、私の手中に再び戻って参りました。これを機に“メロさんの著書”も読み深めてまいります。何回かに分けて“メロさん”シリーズをお送り致します。
まず、メロさんの詩を読んで感じたことは、トールさんと同じように「瞑想」を深く体得しておられます。と同時に共通の「瞑想」の認識をお持ちです。ただ、この宇宙の絶対的中心を、トールさんは『大いなる存在』とお呼びして折、メロさんは『イエズス』と呼んでおります。それはお読みする我々としては、同じ『絶対者』と捕らえて読み進めて行って良いものと考えます。
どうぞ、メロさんの詩も楽しんで読み進めて頂けたら幸いです。宜しくお願い致します。

【文章を無理に頭に押し込めようとしては、いけない。そんな事をしたら、種を殺してしまうだけ。 種をまけ、豊かな土壌に、あなたの心に、種をまけ。そして、ゆっくりと時間をかけよ。】
【永遠の命とは、すぐここにあるもの。 永遠の命とは、今に生きること。】アントニー・デ・メロ
朝夕30分の瞑想を
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