『小鳥の歌』A・D・メロ 何年か前に買い、本箱の埃に埋もれていたこの名著を取り出し、拝読しました。当時はまだ、良く解からない詩(物語)でしたが、今は随所に深い理解と感動をに発見させて頂いております。
はじめの書き出しとして、「この本の読み方」がメロさんご自身のお言葉で記されております。その中の重要な所を、抜粋しておきます。
- 一つの物語を二度読む。それについて深く考え、あなたの生活に当てはめる――あなたに神学の一端を味わせてくれるでしょう。
- 話について十分考えた後で、もう一度それを読み返す。あなたの心の中に沈黙の状態をつくり、話があなたに深さと意味を、言葉と思考の向こう側にある一つの意味を表すのを待ちなさい。――あなたに神秘的なものの感触を少しずつ教えてくれるでしょう。
あるいは、お話を一日中あなたと一緒に持ち歩き、その香りやメロディーがあなたに付きまとうままにしておきなさい。頭脳にではなく、あなたの心に話し掛けさせるのです。――あなたを一人の神秘家にしてくれるでしょう。
――メロさんは、所々にに注釈を添えられております。ぜひ、ご自身で注釈を添えてください、自身の理解を深める事にもなると思われます。

『小鳥の歌』
弟子たちの心は神についての質問でいっぱいでした。
〈師〉は言いました。「神は〈知られていないお方〉、また〈知ることの出来ないお方〉
だ。〈彼〉について述べられたすべての言葉、お前たちの質問へのどんな答えも、〈真
実〉をゆがめたものに過ぎないのだよ。」
弟子たちは途方に暮れました。「ではいったい、なぜあなたは〈彼〉について話してお
いでなのですか?」
「なぜ小鳥は歌うのかね?」と〈師〉は言いました。
小鳥は述べたい事があるから歌うのではありません。歌があるから歌うのです。
――〈学者〉の言葉なら理解出来ます。〈師〉の言葉は、理解するものではありません。
それらは、木立を吹く風、せせらぎの音、小鳥の歌に耳を傾ける人のように聴くもの
です。〈師〉の言葉は、すべての知識を超えた、心の内側にある何かを目覚めさせるも
のなのです。
――これまで、私は当に学者先生のお話のように、牧師の話しをお聞きしておりまし
た。木立を吹く風、せせらぎの音、小鳥の歌、生きとし生けるの声、いや今当に死せ
んとする魂の声、石や土や雨の声、にも耳を傾ける、感覚を研ぎ澄まして参ります。
『エジプトの墓から生えた小麦』
一握りの小麦の種が、古代エジプトの王の墓から発見されました。五千年もまえのも
のでした。ある人がそれを地に埋め、水をやりました。すると驚いたことに、小麦の
粒は生き返り、五千年たった今、芽を出したのです。
ある人間が悟りを開くとき、彼の言葉は、彼の言葉は、命とエネルギーに満ちた種のようになります。その種は受け入りる準備の出来た肥沃な心の中にまかれるまで、何世紀もの間、たねの形のままでいることもあるのです。
わたしは、聖書の言葉が、死んだ干からびたものだと考えて来ました。今、私は、それがエネルギーと命に満ちている事を知っています。石のように死んでいたのはわたしの心のの方でいた。どうしてそんなところから何かが生まれることなど出来ようか!
――当に、自分自身の事を言われている様です。わたしは教会に所属していた頃、砂を嚙む思いでいっぱいでした。しかし、いまは違います。生活に瞑想を取り入れ、聖句にしろ、メロさんの詩も魂に響きます。何という祝福でしょうか。
『彼の目のなかをのぞきなさい』
占領軍の指揮官が、山村の村長に言いました。「お前の村に裏切者を一人かくまっているにに違いない。もしそいつを引き渡さぬなら、お前とお前の村人たちを、あらゆる手段で懲らしめてやる。」
なるほど、その村は、一人の男を匿っていました。善良で無実のように見え、誰からも愛されていました。しかし、村全体の幸福を脅かされている今、村長は、何をすることができたでしょう?村会で何日も何日も論議が行われましたが、結論は出ませんでした。そこで村長は、村の司祭と一緒に事態を協議しました。司祭と村長は一晩中かかって〈聖典〉を探し、ついに一つの解決に到達しました。次の様に言われている箇所があったのです。
「一人の男が死に、国家が救われる方が好ましい。」
そこで村長は無実の男を占領軍に引き渡し、彼に許しを請いました。おとこは言いました。許すことは何も無い、と。彼は村を危難に陥れたくなかったのです。男は残酷に拷問され、彼の叫び声は村中に聞こえました。そして、死にました。
20年後、一人の預言者がこの村を通りかかり、村長の所に真っ直ぐ行き、言いました。
「あなたは何をなさったのです。あの男は、この国の救え主になるよう〈神〉から定められていたのですよ。あなたは彼を見捨て、拷問させ殺されるままにしてしまったのです。」
「私は、何ができたでしょう?」村長は弁護しました。「司祭と私は聖典を見、それに従って行動しました。」
「それこそあなたの過ちでした。あなたは聖典を見た。その前に彼の目のなかも覗くべきだったのです。」
――我々は、他者を見る時、表面的なもので判断を下して無いでしょうか。如何なる人間にも無限の可能性が隠されています(今はどんなに落ちぶれていそうに見えても)。でも、この様な事態に立たされる事は滅多にありますまいが、このような不安定な社会情勢の中に有って、何が起こっても不思議でない現実でも有ります。心に閉まって置きたい、感慨深い物語です。また、自分自身が今どん底にあると思われる状態にある時でも内なる‶大いなる存在”を信じて日々過ごしたいものです。
『イデオロギー』
人間が人間に加える残酷な行為についての記事を読むことは、とても、とても悲しいことです。現代の
強制収容所で行はれた拷問に関する新聞記事一つがここにあります。
犠牲者は金属の椅子に縛り付けられ、自白するまで、電気ショックが次第に激しく加えられる。
拷問者は犠牲者の手を切り、鼓膜が破られるまで繰り返し耳を打つ。
囚人は歯医者の椅子に括りつけられる。神経がやられるまでドリルで穴をあけられる。
犠牲者が協力に同意するまで穴あけは続行される。
人間は生まれつき残酷な訳ではありません。人間は、不幸なとき残酷になるのです。
――でないとしたら、イデオロギーに屈服した時です。
一つのイデオロギーに対するもう一つのイデオロギー、ひとつの体制対するもう一つ
の体制、ひとつの宗教に対するもう一つの宗教。そして人は、それらの間に挟まれ
て潰されます。
イエスを十字架に掛けた人々も、たぶん、残酷な人々ではありませんでした。彼らは
優しい夫であり、暖かな父親だったのです。その彼らが、ひとつの体制、ひとつの
イデオロギー、ひとつの宗教を支持するために、非常に残酷になったのです。
もし宗教的な人々が、いつも彼らの宗教の論理よりもむしろ彼らの本能に従ったとし
たら、私たちは、別の信仰を持つ人が火あぶりになったり、未亡人が炎の中を歩るか
されたり、たくさんの無実の人々が宗教と神の名で行われる戦争で虐殺されたりする
光景を見なくてすむでしょうに。
――もしあなたが、同情心の命令とイデオロギーの要求のうちどちらかを選ばねばならぬとしたら、躊躇せずにイデオロギーを捨てなさい。同情する心にはイデオロギーはありません。――宗教が社会性を持つことによって、当然、イデオロギーが生まれてきます。
――我々が求めているものは、あくまでも、魂の平安で有って、イデオロギーでは無い。魂の平安こそ人生の目的で有って、死を貫く命の歓喜こそ宗教に求めます。イデオロギーは魂の救いにとっては、直接的には関係ありません。
『自分を変えることで世界を変えなさい』
スーフィー派信者のバヤジャドは、自分自身についてこの様に言っています。 「若かったころ、私は革命家でした。〈神〉への私の祈りはすべて次のようでした。 『主よ、私に世界を変えるエネルギーをお与えください。』
私は中年になり、私の半生がたった一人の魂さえ変えることができずに過ぎ去った事に気付いた時、私は私の祈りを次の様に変えたのでした。 『主よ、私に私と接触するすべての人を変えるお恵みをお与えください。家族や友人だけでも結構です。私は満足いたします。』
老人になり、残りの日々が限られた今、私は自分が如何に愚かだったかわかり始めたのです。今、私のたさひとつの祈りは、『主よ私自身を変えるお恵みを下さい。』となったのです。もし私が初めから、この様に祈っていたら、私は人生を無駄に過ごさないで済んだでしょうに。」
すべての人々は、周りの人を変えようと考えます。自分自身を変えようとはめったに考えません。
――わたしの態度の他に変わったものは何もなかった。―それだからこそ、全ては変わったのだ。

朝夕30分のマインドフルネス瞑想を楽しみましょう。
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