瞑 想 7

5.0
瞑想

   『さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる

                       エックハルト・トールを読んで

アインシュタインがこんな言葉を残しております。                               『わたしは神の心を知りたい、のこりは瑣末な事だ。』

 今日まで私も多く教会・寺院等にも通って宗教書を読んできました。『聖書 旧・新』『仏教書』『歎異抄』『お経』等を読んだり・法話をお聞きしたりして参りました、それらを読みお話しをお聞きしても、魂を揺り動かすものに出会えることは(読んだ当初はそりなりの感動は有ったのでしょうが)有りませんでした。(自分の読み方・接し方が悪かったのか❣)お読みした当初・お話しをお聞きした時は、それなりの感銘・感動を受けた言葉・方々はイッパイおられましたが、今回の様な(トールさんの著書)ドースンと魂に落ちるものは有りませんでした。今は宗教団体から離れ「瞑想」に専念する日々です。しかし、素晴らしい出会いはあるものです。奇跡の経験とも言えます。

それが、最近出会えた。

『さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる』エックハルト・トール

です。素晴らしい魂にズシッとくる著作でした。いい本です。文面を少し紹介します。

――釈尊「悟りは苦しみの終わりである」――

――悟りを開くと、自分の思考(過去の失敗への慙愧の念・未来の不安への恐れ―雑念)

  に振り回されなくなる――

――「さとり」とは「すべてが一つであり完全である」という境地。――

――目に見える形ある世界――目に見えない「大いなる存在」と一つになること――

――「われ思う(私は考えるでは無く―私は有る)、ゆえに我あり。」デカルト――

――「自分はすべてと一つである」――

――――自分でも気づかないうちに、思考を「本当の自分」だと思いこんでいるのです。自由への第一歩は自分の思考は「ほんとうの自分でない」と気付く事から始まります。そう気づくと「思考を客観的に眺めること事が出来る様になります。思考を客観的に眺めると、高次の意識が活動し始めます。思考をはるかに超えた、果てしない「知性の世界」が存在することや思考はそのごく小さな一面に過ぎないことにも気付き始めます。

さらに「かけがえもの」が見え始めます。それは思考とは別の源泉から湧き上がる「美しさ」「愛」「創造性」「喜び」「心の平安」です。

その時、あなたは「私はやっと目を覚ましたのだ!」と思うはずです。――

それぞれに含蓄の有る言葉です。

日々の瞑想に欠かせな知恵であり、ヒントとなる言葉です。

我々は日々、瞑想する目的は、正に次元超えた世界の体験する事です。エゴからの脱出、高次元世界を求める事です。

トールさんの文面に「思考」という言葉がよく使われます。これを、私なりの解釈なのですが「雑念」と置き換えたらもっと分かりやすい気がします。厳密には違うのでしょうが。

最初、生活の中に、瞑想を取り入れたとき、日頃、私の中に「雑念」が何と多くあることかと気が付かされました。その「雑念」からの解放された「瞑想」の時間が何とも「快適」な時間と思はれました。

今もそんな思いで「瞑想」に取り組んでいます。

そして、その「雑念」とは過去にやらかした大失敗への慙愧の想いだったり、また未来のまだ来ない不安・焦りでした。それが、今の自分の思考を狭め、行動にブレーキを駆け、意識を集中出来ないものとていました。

「今を生きる事」「今を解放する事」「今に重点を置く事」――「さとり」を開く事の大切さを実感させられました。

どうしても、「さとり」と聞くと私なんぞには無理、高僧や釈尊の世界で自分には程遠いものと思っていました。この著書に出会い、自分も、もう一度やり直して見ようとの勇気が与えられました。

このご著書『さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる』を何度も何度も拝読させて頂きます。バイブル以上のバイブルとしての宝物です。

この年で始めて「生きる意味」を知り得た思いです。

そして、奇跡の経験とは、ありえる事の事実。トールさんが体験された明確な「目覚め」を、我々にも程遠いものではない事を確信出来ました。

トールさんは「さとり」開きたいと思ってはいけないと、と仰います。

「だだ今を生きる」事の中に「さとり」がある。との仰せです。

静寂の中に「瞑想」の時間。

静寂の中にある神性の種『いま在る大いなる存在』――『本当の自分』

思考は「本当の自分」ではありません。――驚きの事実。      

一日、朝夕30分 瞑想の時間を大切に❣

コメント

タイトルとURLをコピーしました